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生きても生きても雨

晴れの日は来なくても 続きはあるんだぜっ

コミュニケーションの敷居を高くしすぎている君たちへ

コミュニケーション能力が高い人間を採用する。
コミュニケーション能力が高い人間になるべく教育する。
コミュニケーション能力が高い人間を友達にする。
コミュニケーション能力が高い人間を恋人にする。
コミュニケーション能力が高い人間と結婚する。
子どもをコミュニケーション能力が高い人間に育てる。
顔がいい人間はコミュニケーション能力も高い。

コミュニケーション能力ってなんだろう。
自分の考えを伝えることができるってことだろうか、的確な雑談を繰り出せることだろうか、面白い話をすることだろうか、人の話をよく聴くことだろうか、居酒屋でワイワイ騒げる能力だろうか。

その答えに関心はない。
予想される回答は、いずれもきっと高レベルすぎるだろうから。

ごちゃごちゃ考えるのはやめて、もう1度、今ここで立ち止まり、コミュニケーションについて考えてみたい。そう思う出来事が昨日あった。


仕事をしていたら、耳の不自由なろうの人が来た。
私はろうの人と接するのは人生で初めてだった。
正直、最初困惑した。どうしようと思った。
相手が筆談で話しかけてきたので、筆談で会話した。
言葉を話すことはできないが、注意をひきつけるときには、言葉にならない声を出すのだと思った。

それでまぁ、一応のコミュニケーションは取れていたんだけど、なんだか寂しいなと思ったので、隙を見て、スマートフォンで「ありがとう」の手話を調べた。

調べたところ、簡単なものだった。
左手を、手の甲を上にして水平にする。
その左手の甲を、右手で垂直に軽く叩く。チョップする感じ。

やりとりが終わって、最後に、手話で「ありがとう」と伝えてみた。

すると、相手の顔が、一瞬でぱあっと明るくなり、言葉にならない声をあげた。
相手も笑顔でありがとうの手話をしてくれた。


通じたんだ。伝わったんだ。

そう思った。

そして

人間はうれしいときにこういう顔をするんだ
人間は喜んだとき声を出すんだ

と思った。
それほど鮮明に相手の人は喜んでくれた。
簡単なジェスチャーひとつで。
たったそれだけで。


誰かに自分の気持ちが伝わるってことは、こんなにうれしいことなんだ。


それが、コミュニケーションの基本なんじゃないかな。
それだけで、別にいいじぇねえか。
コミュニケーション能力だのなんだの、ごちゃごちゃうるせえよ。


相手の人が帰ったあと、ちょっと泣いた。
あの人と心が通じたことがうれしかったからだ。
コミュニケーションというものは、こんな気持ちになるものなんだ。
私は伝わったのがうれしかった。
相手の人は、おそらく、「この人自分のために手話を使ってくれた」って思って、喜んでくれたんだろうと思う。
それを見て私もうれしくなった。


ろうの人は、この社会では小数派だ。
多くの会社や学校に通う人は、日常生活で接することはあまりないと思う。
きっと、生きていて悲しいことや辛いことはそれなりに多いだろうと思う。

私は耳は不自由ではないが、それなりに辛いことは多い。
人に疎まれ、避けられ、軽んじられる人生を送ってきた。

だからあまりわからなかった。自分の気持ちが誰かに伝わることが、誰かと通じることが、こんなにうれしいことなのだということが。
街で外国人に話しかけられて、英語にならない英語で話し、それでも通じたときは、うれしい。英語を話したいと思う。
こういう気持ちは、社会の雑踏に埋もれて、すぐに忘れてしまうかもしれない。
それでも、いや、だからこそ、こういう気持ちは大切にしたい。
コミュニケーションなんて、そんな難しいことではないのだ。


こんにちは、わかりました、ありがとう、さようなら。
これくらいの手話は覚えておこうと思った。